御文(おふみ)さま「白骨の章など」は蓮如上人が門弟の要望に - サイト運営者のブログ
2011/02/13 12:07

御文(おふみ)さま「白骨の章など」は蓮如上人が門弟の要望に




「御文(おふみ)さま」は蓮如上人が門弟の要望に応えて、真宗教義のかなめを平易な消息の形式で著されたものといわれています。宗祖親鸞聖人の『御消息』に示唆を得て作られたともいわれ、どんな人にも領解されるように配慮されています。

五帖八十通の『御文』は浄土真宗が飛躍的に拡大した吉崎時代のものがいちばん多く、上人が一般
大衆を精力的に教化されたことがうかがい知れます。

御文様(白骨の御文)


この白骨の御文は浄土真宗の中興の祖といわれています第8世蓮如上人が、真宗の教えを一般の信者に教えるために、平易に述べたもので80通が納められています。

そのなかでも、第16通は、「白骨の御文」として、人間のはかなさを諭したもので、葬儀や法事などで用いられています。
葬儀やお通夜でたいてい唱えられていますので、よくご存じと思います。
私は特にこの「おふみ様」を、特にありがたく拝聴しています。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相を、つらつら勸ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形體(ぎょうたい)をたもつべきや。
我やさき、人やさき、けふともしらずあすともしらず。
おくれさきだつ人は、もとのしづくすゑの露(つゆ)よりもしげしといへり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたへぬれば、紅顔むなしく変じて、桃季(とうり)のよそおいをうしないぬるときは、六親眷屬(けんぞく)あつまりて、なげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)のけむりとなしはてぬれば、ただ
白骨のみぞのこれり、あはれといふも中々おろかなり。
されば人間のはかなき事は、老少不定(ふじょう)のさかいなれば、たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿彌陀佛を深くたのみまゐらせて、念佛もうすべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。

「御文(おふみ)さま」の現代語訳


人間のはかないありさまをつくづく見つめれば、「およそはかないものとは、人がこの世に生れて死ぬまでの始中終、幻のような一ときである。
それゆえ、1万才の寿命を受けた人を聞いたことがない。
一生は過ぎ易い。
今にいたっては、誰が100年の姿形を保ちえようか。
私が先か人が先か、命の終わりは今日かも知れず、明日かも知れない。
先立たれる人、先立つ人、それは草木の根元のしずくがしたたり落ちるよりも多いと言える。
それゆえ、朝には生き生きとした顔をしていても、夕べには白骨と化してしまう身なのです。
無常の風が吹いたなら、二つの眼はたちまち閉じて、ひとつの命は永遠に絶えてしまいますので生き生きとした顔は空しく変わり果て、桃李のような姿も失われてしまったなら、親族たちが集まって嘆き悲しんでも、どうしようもないことです。
野に送って荼毘にふし、夜半の煙となりはてれば、ただ白骨だけが残るのみです。
あわれといっても、ただただ表現しようもありません。
それゆえ、人間のはかないことといえば、老いては死に、若くても死ぬことのあるこの世ですから、どなたも早く浄土往生の一大事を心にかけて、阿彌陀仏に心から信心し、お念仏を申すべきです。
あなかしこ あなかしこ




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