逆竹 逆さ竹 さかさだけ
親鸞聖人が国府から鳥屋野へ来られ、草庵をむすんでお念仏の教えを説かれていた頃、親鸞聖人は人々に教えをひろめようとされました。
しかし誰一人聴こうとしませんでした。
親鸞聖人は 「我が拡むるところの仏法、もし仏の意に適うなら、この枯れた竹に必ず芽も根も生じるであろう」 と持っていた竹の杖を大地に突き射されました。
その言葉のとおり、やがて竹の杖に根が張り芽が出ました。
この竹は親鸞聖人が逆さに杖を刺されたのか、枝葉が下に向いて繁茂し、後に立派な竹藪となりました。
大正11年国の天然記念物に指定されています。
真宗大谷派
鳥屋野院西方寺
新潟市中央区鳥屋野3丁目
黒埼I.C.より車で5分 |
焼鮒 焼き鮒 焼きフナ やきふな
鳥屋野の対岸に山田という集落がありました。聖人は鳥屋野の草庵から山田にもお念仏を伝えにおいでになっていました。
建暦元年十一月、流罪をゆるされた聖人は、鳥屋野の草庵を出立され、信徒と共に山田で別れの宴を催されました。
その折、信徒の一人が焼いた鮒を聖人に献じました。
聖人は、つけていた袈裟を傍らの楠にかけて、「わが真宗のみ法、仏意にかない 念仏往生間違いなくんばこの鮒 かならず生きるべし」と念じ、この焼いた鮒を近くの山王神社境内の池に放されたところ、不思議にも鮒は生き返って泳ぎ出したと伝えられています。
それ以来、この付近の鮒には、焼いた跡のように色が黒く残っているとのことです。
また、寛政八年、山王神社境内の大楠の枝が大風のため折れてしまったので切ったところ、切り口に親鸞聖人のお姿と焼き鮒の形が現れました。
人々は聖人の偉徳の現れとして山王神社の神官田代家に安置し聖人を偲ぶようになったとのことです。
真宗大谷派
山田院焼鮒山 誓慶寺
新潟市江南区平賀210
新潟中央I.C.より車で約10分 |
田代家
新潟市西区山田646
黒埼I.C.から車で約5分 |
繋ぎ榧 つなぎがや
ある日親鸞聖人が、護摩堂山 護摩堂城の城主宮崎但馬守に招かれて参上し、み仏の法話を説かれた折、城主は、お茶受けにと榧の実をさし出されました。この榧の実は、農民が年貢米の代りに納めたり、飢饉や洪水でお米の穫れない時に食用にしたもので、糸を通して珠数のように繋いで保存していたそうです。
親鸞聖人ほ、その一粒を地に植えて仏縁を説かれたところ、芽を出して生え茂り、実を結んだそうです。
しかも不思議なことに、青々とした葉が表と裏ひっくり返しになっていて、これをお手返しの榧とも呼んでおります。
「我が跡を慕うて来いよ繋ぎ榧 み法のあとを通すひとすじ」
と聖人は詠まれています。
了玄寺の庭にある天然記念物の榧の老木(樹齢760年)は、500年ほど前、城跡から移植きれたものと伝えられています。
真宗大谷派 了玄寺
南蒲原郡田上町湯田上
JR信越本線田上駅から徒歩20分 |
三度栗 さんどぐり
親鸞聖人が保田の里に布教に来られたおり、一人の機織りのお婆さんが、お念仏の教えにたいそう喜びました。お婆さんは、たまたま持っていた栗の実を焼いて親鸞聖人にさしあげました。
そして、お名号の交付を願いました。しかし、その場には一枚の紙もありません。
お婆さんは、たまたまそこにあった大切な織りかけの布を裂いてさし出し、聖人はその布に「南無阿弥陀仏」と書してお与えになりました。
聖人はその後、お婆さんからもらった焼栗を、帰る途中で「上野が原新山」というところで土に埋め、「わが勧むる弥陀の本願、末世に繁盛いたすならば、この栗ここに根芽を生じ、一年に三度花咲き実るであろう」とおおせになりました。
その言葉通り、栗の木は1年に三度花と実をつけたと伝えられています。
また、1枚の葉の先が2枚に別れて成長したともいわれています。
当時の木は枯れてしまいましたが、現在では若木が育ち、今でも1年に3度実をつけています。
真宗大谷派
焼栗山 孝順寺
阿賀野市保田
JR羽越本線水原駅からバス「石間中(いしまなか)」行(2時間に1本)に乗り、15分「横町」下車、徒歩2分 |
片葉の葦 かたばのあし
親鸞聖人が越後で最初に流刑になった国府では、国分寺境内の庵に居住していたが、ある日この地の居多神社に詣でて「わが念願を守りて、その奇瑞をあらわし給え」と越後に念仏が広まることを願って念じたところ、境内に生えていた葦が一夜のうちに片葉になったと伝えられている。
居多神社
上越市五智6丁目1-11
直江津駅から2q、車で5分 |
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